岩本昌樹×小野大輔メモリアルマッチ スペシャル対談

岩本昌樹・小野大輔メモリアルマッチ スペシャル対談

岩本昌樹小野大輔スペシャル対談 Part-1

岩本昌樹小野大輔メモリアルマッチ」のために行われたスペシャル対談が実現!ライター河合 拓 氏が対談形式で取材。フットサルとの出会い、海外挑戦、代表、クラブ、Fリーグ、そしてファンへの思い。今語られる2人の熱き思い!

河合 拓
――引退から1年が経ちました。お2人は今、何をされているんですか?
岩本昌樹
俺はバルドラール浦安の育成ディレクターと個人でスクールやイベント、パーソナルトレーニングの講師などをやっています。
サッカーを教えることも多いですね。フットサルの技術で、サッカーに生かせるものを教えてほしいと言われることが多いですね。
小野大輔
俺も基本的には、昌樹と一緒ですね。平日は柏と神奈川に自分のスクールがあるので、そこで教えています。
週末は地方でクリニックすることが多いですね。今後は、選手たちのセカンドキャリアをつくるような会社をやりたいなと思っています。
河合 拓
ボールを蹴ることは、ないんですか?
小野大輔
一緒にシニア(オーバー40)のサッカーチームに入ったんですよ。ね?
岩本昌樹
そう。一緒のところ。
小野大輔
強いところで、本格的にやっています。
河合 拓
長きに渡ってフットサルをやってきた2人ですが、フットサルを始めた経緯を教えてください。
岩本昌樹
もともと幼馴染がやっていたんですが、彼に「一緒にチームをつくろう」って誘われて、明海大学の同級生を誘って始めました。
あと、(相根)澄くんとかとは一緒にサッカーをやっていたんです。そういう感じで、周りにフットサルをやっていた人がいたんです。
小野大輔
1番最初にやったのどこでした?
岩本昌樹
1番最初は、コパ・チリっていって、三菱養和のグラウンドでやった大会だね。
小野大輔
ありましたね、懐かしい!
岩本昌樹
チームをつくる前に誘われて、そこで初めてやったの。それで、その後にプレデター(現バルドラール浦安)をつくったの。
河合 拓
なんでプレデターっていう名前だったんですか?
岩本昌樹
それはね、わからない(笑)。名前の由来とか、聞いたことがないな。勝手に決まっていたからね。
小野大輔
俺は育った府中がフットサルが盛んなところだったので、小学校の時から体育館で小さいボールを蹴っていました。
「フットサル」っていう名前になった時には、もうはじめていましたね。外でサッカーをやって、暗くなったら各小学校、中学校の体育館に入って、そこでボールを蹴るっていう感じでした。
一般の大会に出たのは、高校生の時で、藤沢まで行って試合に出ていました。そこから天竜とか、いろいろなところに行って試合するようになりましたね。
岩本昌樹
天竜、行ってた!まだ関東リーグとかもなかった時代だよね。
関東リーグができたのが、1999年くらいで、第1回大会はプレデターがガロと同時優勝したんだよね。
河合 拓
岩本さんは、ずっとプレデターに在籍していましたが、小野さんは結構、移籍もしましたよね。
小野大輔

最初に始めたチームが、高校の同級生たちとつくったコッツンタイムズで、その後に中村恭平さんに誘われて府中水元(後に府中アスレティックFCとフトゥーロに分裂)に行って、(上村)信之介くんと出会ってファイルフォックスに入りました。

その年に全日本フットサル選手権で優勝して、次の年にカスカヴェウ(現ペスカドーラ町田)に負けてファイルフォックスを辞めて、フトゥーロをつくったので、実質ファイルフォックスには2年くらいしかいなかったんです。

「当時のお宝写真」提供:小野 大輔

岩本昌樹
ファイルの印象が強いけどなぁ。
小野大輔
フトゥーロは最初、ユニクロのスウェットをみんなで買って、それにチーム名とか入れてオリジナルのウェアをつくっていたんです。
洗う回数が多い人から、どんどん色が落ちていったりして(笑)。当時から昌樹のことは知っていましたが、ちゃんと喋るようになったのは2002年からですね。
岩本昌樹
2002年の日韓ワールドカップがあって、NIKEのイベントで一緒になったときくらいからだね。
河合 拓
当時はフットサルがどうなっていくと思っていましたか?
小野大輔
フットサルで飯を食っていきたいなとは思っていました。
岩本昌樹
うん。当時、まだ日本にはプロ選手になれる環境がなかったから、フットサルを仕事にしたいなと思って、2002年にスペインに行ったんだよね。
4月の終わりか、5月の終わりくらいに入団テストを受けに行って、練習に参加してOKが出て。それで8月から向こうに行きました。
河合 拓
小野さんは05年にイタリアへ行きましたよね。
小野大輔

04年のW杯に出た時に、イタリアに0-5で負けて、日本人がイタリアに行かないと追いつかないんじゃないかと思ったんです。

その時、スペインはまだスローインでやっていたから、FIFAルールでやっていたイタリアに行きました。4年間、ヨーロッパでやっていたら、誰かしら来るだろうと思って。
海外でプレーする日本人が増えたら、次のW杯までに日本も強くなるはずだと思っていたんですけど……08年のW杯では開始2分で前十字靭帯を切っちゃったから、もうしょうもない(苦笑)。

最初のW杯で挫折して、次の4年間は海外に行って、かっこいいストーリーだなと思っていたのに、2分でヒザが逆方向に向いてしまって……。
河合 拓
あのW杯の時は衝撃でした。記者席で見ていて「あれ? 立ち上がらない…」って。
小野大輔

そうですよね。海外に行った当時、嫌だったのは、日本人はお金を持ってきてクラブに入るものだと思われていたんです。

だから、強くないクラブでもいいから、ちゃんと給料を出してくれるところを探してもらって、トライアウトを受けに3回くらいイタリアに行きました。それで1年間、イタリアでプレーしたら、スペインもルール変更でキックインになったので、次の年からスペインに行きました。

でも、2カ国でプレーする経験ができて良かったです。「こんなに違うんだ」って分かったので。
岩本昌樹
どう違ったの?
小野大輔
イタリアは、相手の良いところを消し合う。
それに対して、スペインは良いところを出し合う。それが一番、違うなって感じたところですね。
河合 拓
岩本さんは1年で帰国しましたよね? あれはなんでだったんですか?
岩本昌樹
本当はもう1年いるつもりだったんですが、帰ってこいって言われたんです。プレデターが勝てなかったから(笑)。
小野大輔
そうなんですね(笑)!
岩本昌樹

あとは、受けるつもりだったチームがあったんだけど、そこにブラジル人が入っちゃったの。

テストを受けに行こうとしたら、「もうブラジル人が入った」と言われたんだよね。それが一番大きいかな。
小野大輔
当時は外国人枠2つ?
岩本昌樹
そうだね。
小野大輔

イタリアは当時、外国籍枠が1しかなかったから、ブラジル人がみんなイタリア国籍を取って二重国籍にしたんですよね。

だから、俺がいたテルニなんて、純正のイタリア人はGK1人だけで、13人がイタリアとブラジルの二重国籍でした。
河合 拓
当時のイタリア代表は「ブラズーリ」って呼ばれていましたからね。
岩本昌樹
スペインも多かったよね。俺がいたアルバセテも、スペインの国籍を持った選手が1人いたから、実質3人がブラジル出身だった。
河合 拓
ブラジル人がトラックに乗って、いろいろなクラブのセレクションを受けに行くっていう話は聞いたことがあります。
小野大輔
そうですね。あと、道場破りみたいなのもありました。
漫画みたいに靴だけ持って練習に来て、いきなり「テストしろ」っていう感じになるんです。
岩本昌樹
ブラジル人だけじゃなくて、アルゼンチン人とかも来たね。
小野大輔

南米は、そういうことをする人が多かったですね。さっきの岩本さんの話で思い出したのですが、俺の場合は、俺が入ったことで、ブラジル人選手が一人、チームに入れなくなったんです。

だから最初、俺に対する対応はすごく冷たかった。「俺らの仲間を一人、蹴落としやがって」みたいな感じで、初日から試合中に殴り合ったんですよね。
岩本昌樹
俺はね、ブラジル人にすげー良くしてもらった(笑)。
小野大輔
(笑)。そういうのいいですよね。
岩本昌樹

うん。さっき言った3人のブラジル人が、「一緒にボールを蹴ろうよ」って誘ってくれて、ゲーム形式の時もめちゃくちゃパスをくれた(笑)。

外国人枠で来ているから、そいつらがチームの中で一番上手なの。
そいつらがめちゃくちゃパスをくれたから、多分、彼らのおかげで評価されて、入団できたんだと思う(笑)。
小野大輔

でも、岩本さんの人生って、そういう感じですよね!

俺は絶対にそういう感じにならない。パスなんて来ない。

さっき話したケンカも、発端はボールと全然関係ないところで走っていたら、足を出されて転んだことですからね(笑)。
岩本昌樹
どんなだよ(笑)。

俺は本当にブラジル人選手に助けられた。あまり試合に出られていないスペイン人選手とかは、結構、ピリピリしていて、「言葉もわからないのかよ!」とか言ってたらしい。

けど、俺はそれすらもわからなかったから(笑)。通訳をしてくれた人と、そのスペイン人が喧嘩していて、それを止めに入っていた(笑)。
小野大輔
自分のことで喧嘩してるって思わなかったんですか(笑)?
岩本昌樹

いや、自分のことだろうなとは思っていたんだけど、何言っているのか分からなかったからね(笑)。

多分、「マークを受け渡せ!」って言われたのに、マンツーマンでついて行っちゃって、「そんなこともわからないのかよ!」って怒っていたと思うんだけどね(笑)。

でも、今振り返ると、みんな良いやつだったな。
河合 拓
周囲が助けてくれるっていうのは、珍しい話ですね。初めて聞きます。
岩本昌樹

最初の練習の時も、パスを前目に出した時に、受け手の選手が止まってしまって、パスがズレてミスになったの。そういうのって、どっちのミスか分かりにくいじゃん。

そういう時って普通は「おまえ、もっと前に行けよ」「おまえ、今の足元に出せよ」って言い合いになるんだけど、その時は監督が俺に「おまえ、しっかりパスを通せ!」って怒ってたの。

俺は内心「今のは、前に行ってくれたら通ってるのにな」と思ったんだけど、言葉も話せないし、「ごめん、ごめん」って謝ったの。そうしたら、止まった受け手の選手が「いやいや、今のは俺のミスだよ」って監督に言ってくれたの。なかなかなくない(笑)?
小野大輔
何ですか、それは(笑)! そんなのあり得ないですよ。俺は、言い合いにしかならなかったのに。
岩本昌樹
日本でも、あんまりないよね。「今の俺のミスだよ」って言わない。
小野大輔
日本代表でも、先輩がパスミスして合わなくて「おい!」って言われたら、「すみません!」って言うしかないですからね(笑)。
河合 拓
いま話にあがった日本代表ですが、二人が初めて選ばれたのっていつですか?
岩本昌樹
俺はね、1999年かな。マリーニョ監督の時で、ある程度メンバーが固定されていたところに、鈴村(拓也・現デウソン神戸監督)、木暮(賢一郎・現フットサル女子日本代表監督)とポンって入ったの。
小野大輔
俺は東京都選抜で出た全国選抜で優秀選手に入って、候補合宿に呼ばれたのが最初でした。
河合 拓
当時はまだ日本代表合宿でも、ウェアがバラバラの頃ですよね。
岩本昌樹
(2003年に監督に就任した)サッポの時くらいからだよね。統一されるようになったのは。最初はサッカーの日本代表の使い回しだった。
河合 拓
初めて日本代表に呼ばれた時って、どんな気持ちだったんですか?
岩本昌樹

嬉しかったよね。でも、どんなものかは、そこまでわかっていなかった。フットサルを始めて1年ちょっとで呼ばれたから、ちゃんとフットサルもわかっていない感じだった。カスカヴェウとか、ファイルフォックスみたいな感じではなくて、彼らを見て勉強していたからね。

当時、この2チームがやっているフットサルは、本当に質が高かった。カスカヴェウとファイルは別格で、「この2チームみたいなフットサルをやりたいな」って、勝つこと以上に、そこにこだわっていたね。
小野大輔

そんな風に思われていたなんて、ファイルフォックスにいた時は、全然思いませんでした。とにかく必死でしたからね。チームにはブラジル人もいるし、みんな知識も、技術もあったから。

でも、日本一のチームだったから、ここに着いていけば、日本一だし、そこそこのレベルにはいけるんじゃないかと思っていました。

それで1対1の練習をしようとしたら、(眞境名)オスカー(名古屋オーシャンズの初代監督で現VEEX東京レディース監督)に「おまえは背負え!」って言われて、「なんだよ背負えって! 1対1させろよ!」って食ってかかっていました(笑)。
河合 拓
でも、結果的にはそれが良かったんですよね。
小野大輔
そうですね。死ぬほど練習させられましたから(笑)。番号で戦術があるんだっていうのも、この時に初めて知りましたね。
岩本昌樹
確かに。サッカーだとコーナーキックの時にちょっとあるくらいだからね。
小野大輔

最初は「1番、2番、3番とかって、何?」って思いましたし、覚えられないから、私生活でも復習をしていました。たとえば、練習が終わった後に食事に行く時、後ろから「1」とかって言われると、その動きをしなきゃいけないとか(笑)。

みんな私服なのに、「レストランに入る時、2な」とか言われると、ちょっと後ろ向きに入ったりして(笑)。
岩本昌樹
バカじゃないの、それ面白いね(笑)。
小野大輔
でも、そうやって戦術を覚えていきましたね(笑)。